混沌生活記

アイコンの写真はアパートの植木に並べられていた ちくわ の写真です

5年ぶりに車を運転する

大学進学後すぐ、周りの友人たちが自動車学校に通っていたので自分も免許を取ってみた。
けど、車は日中親が使っているし、わりと都心部に住んでいたためわざわざ車を必要とする場面も少なく、必然的に全くハンドルを握らなくなった。
今では立派なゴールド免許だ。

なぜもう一度運転できるようになりたいと思い立ったかといえば、近頃一人旅をすることが増えたからである。
旅行に誘えるような友人が皆無だから仕方なしに一人で旅行しているだけなのだが、誰にも行動を制限されない分、車で自由に行動できるようになれば、もっと旅の幅が広がると思った。


そう思い立ち、手始めに車庫から車を少しだけ前進させてそのまま真っ直ぐバックで駐車しようと試みた日があった。
調子が良ければ、そのまま家の周囲を一周しようと思っていたが「あれ!?バックしたいときってシフトレバーどれにいれるの!?BってバックのB?それともリターンのR?」と混乱。
助手席に座らされた父は、眉間に皺を寄せてずっと窓の上のルーフを握りしめていた。
このままドライブするのは、あまりにも町の脅威すぎると思いやめた。
その後、自室に戻って標識の意味や車の操作手順を改めてインターネットで確認する。シフトレバーのRはリターンではなくリバースだった。


そうして今日、再び助手席に父親を乗せた。
PayPayの12時間限定自動車保険に加入し、古の初心者マークをつけていざ出発。
どうしても月見バーガーが食べたい気分だったので、しばらくドライブした後、近所のマクドナルドをドライブスルーで利用することをゴールとした。

2時間ほど市内を巡る。途中ナビの言われた通りに進むと名古屋駅の裏(銀時計のほう)に連れて行かれてしまい、路駐の車や客を拾うため減速していくタクシーにヒヤヒヤしながら運転した。

5年ぶりに車道に出た割には、そこそこ運転できていたと思う。
最後のドライブスルーでは「寄せすぎ!!!寄せすぎ!!!」と父の悲鳴が聞こえていた気がするが。




まだ一人で、しかも見知らぬ土地で運転できる勇気は全くないのでこれからも練習精進したいと思います…





教習所で先生に言われた「マリオカートが上手い人は実際の運転も上手いよ」という言葉を私は永遠に信じています。
みんなで公園にDSを持ち寄っていた小学生時代。マリオカートの才でだけもてはやされていたあの頃の自分に今なら価値を見出してあげられる気がするから。



自分の記録を残すこと

 

ここ最近、生きることについて考える機会が増えた。

 

20代の自分が経験するには些か早すぎるのではないかとさえ思うが、否が応でも死別と向き合わなければならない事象がこの半年で起こったのだ。

 

一つ目は知人の死。

彼女と私の接点は同じコミュニティに所属しているということだけだった。
天真爛漫で誰からも愛され、ネガティブとは対極にいるような人間に見えていた。

後日、自死であったと聞いた。報告を受けて皆動揺していたが、以降も彼女の存在をタブーとして扱うことはなく、過去の話題を語らう際にはよく彼女も登場する。

ただその反面、命が潰えた生物は、これから新しい記録が紡がれることはないのだと度々思い知らされるようになった。

 

 

 

二つ目は、両親の病気。

まだ還暦にも満たない両親が病に伏した。
それぞれの医者から半年後、1年後の話をされた。

遺伝子を継ぐ私は平均寿命を全うできる可能性も大いにあるが、同じ運命を辿るリスクも他人と比べると高いらしい。

片方の親だけならまだしも、両親共々。また後日、叔母からも同じく病の報告があった。
病室で母から双方の親族たちの話をされ、自分の家系に戦慄する。まさしく私は地獄のハイブリット遺伝子を持って生まれていたのである。

 

 

 

これからの自分の人生について考える。

兄弟や従兄弟などいない私は、さして遠くない未来で天涯孤独になるだろう。
あくまで他人よりリスクが高いだけと言われたが、悲観した方向で物事を捉えてしまうのは幼少からの悪い癖だ。地獄のハイブリット遺伝子ならば、私は両親よりもっと早い年齢で病を発症したりするのだろうか。生憎、結婚はしたくないし友人も少ない。私は医療関係者に看取られながら孤独に旅立つのだろうか。

 

また、来世について考える。
来世は存在するのだろうか。というか来世ってなんだ?
調べてみると、「死後に生まれ変わる世界」のことを指す仏教の考え方らしい。
現代ではよく「来世に期待」や「来世で頑張ろう」などという使われ方をするが、ここで言う生まれ変わりは『強くてニューゲーム』の意味合いなのではないだろうか。
自分の経験やそれによって構築された価値観を持った状態で,新たに赤子として産声をあげる。
であれば、来世なんてないのではないかと思う。
輪廻転生で死んだ魂が新しい生命に生まれ変わるというサイクルは存在するのかもしれないが、あくまでもそれはもう新しい別個体であり、私の記憶が引き継がれるようなことはない気がするから。
今の私はきっとこの人生で終わり。
この脳味噌や心もきっと現世で終わり。
だからこそ、なるべく多くの物事を経験して、それに対して自分がどう感じるのかを大切にしたい。
仮にひとりぼっちの今際なのだとしたら,その瞬間に頭によぎる後悔はなるべく少なくしたいから…
若くて健康で元気に動ける今のうちにたくさんのことを経験して感じたい。

 

 

かくしてブログを始めてみました。
仮に天涯孤独に果てたとしても、ネットの海に私の生きた記録が残るという安直な考えです。

 

 

 

 

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

 

 

追記

この記事をアップロードした数日後、推しが配信で来世についての考えを語っていたのだが、「今の自分が誰かの来世なのは嫌」と言っていて、おもわず「それダァ~~~~」と画面の前で唸ってしまった。
ずっと屁理屈みたいな考え方で悶々と思考していたけれど、この一言でものすごく脳が痺れた。
これだよ、この衝撃なのだよ。私が現世で経験したい「感じる」っていうことは。